いつも側にあるという安心


ここ数日、またコーヒーが恋しくなっている。
カフェインを受け付けるか否か、
そのことが、自分の体調のバロメーターにもなっていて、
少し前までは全く受け付けられず、ルイボスティーや、たんぽぽコーヒーの粉末をミルクでうすくといたもの、などを、気分転換に飲んでいた。
家で過ごす時間が増えたせいか、それをまた充実させたいと思うせいか。
挽いた豆に湯を落とし、立ち上がる香りに、心底ほっとする、
その安心が恋しいだけなのか。
ただ、そういうときに限って、その安心を確実に与えてくれるコーヒー豆が、手元になかったりする、
だから今朝は早起きをして、
いつもと逆方向の電車に乗り、
その安心を多めに手に入れることに成功した。
お気に入りのスコーンも一緒に。
ひとつづつラップで包み冷凍し、大事に食べることにしている。
ここのお豆なら、と、確信を寄せているお店の支店がある。
幸いなことに、買いに行ける距離に。
そこは、空間作り全てを真似したくなるような、
自分にとっての居心地のお手本だと思っているお店だ。
スタッフの女性は皆笑顔で、時にその笑顔に、自分にはないものを確信を持って見せつけられたような気持ちになり、複雑な思いとともに、店を後にした日も少なくない。
こういうお店でわざわざ食料を買うこと、
そのこと自体に後ろめたさがあるのかもしれない。
それは私にとって、ハレかケか、といえば、ハレに近いような気がして。
…そう、最近よく考える。
日常の、ハレとケについて。
このことはまた違う文章で書こうと思います。
夕方、帰り支度のリュックから、淡いコーヒーの香りがする。
バス停の向こうに落ちる夕日に、散り際の桜が写り込む。
今年の桜は短かったなと思う。
今夜は2020年最初で最後のスーパームーンなんだって。
お月さまが側にいるよ、
そんな安心を抱いて眠ろう。
m.